今回は誹謗中傷について徹底的にアンチの立場にたって考えてみたいと思います。
誹謗中傷はもはや「ネットの文化」と言わんばかりに拡大しています。
特にSNSでは特定の人に向けたアンチ活動に精を出す人達もいて「なんだかな・・・」と思う部分もあります。
かくいう私もネット上で誹謗中傷された事はもちろんといっていい程あり、そのようなアンチの対策方法について以前も記事でまとめました。
結論的には誹謗中傷するアンチには「ため息しか出ないな」と思うのですが、ちょっと考えました。
- 「ただただ、こちらサイドで物を考えても本質って見えて来ないのでは?」
- 「もしかしたらアンチサイドにも言い分があり正当な場合もあるのでは?」
こんな理由から自分も一度アンチの立場にたって誹謗中傷について考えてみるのがフェアだと思ったのですね。
とはいえこの記事で誹謗中傷を推奨したり肯定するわけではなく、アンチしてしまう事情にも思いを馳せてみようと思ったのです。
この記事で誹謗中傷される側もアンチ側も少し歩み寄れると良いな・・・と感じています。
アンチ目線で考えた誹謗中傷の原因
まずアンチが誹謗中傷してしまう事の発端って何なんでしょう?
- 単純に嫌いだから?
- 「悪を正したい」という正義感?
- それとも思いやりから?
人それぞれでしょうし、真実はわかりません。
人はなぜ嫌いになるのか?
まあでも「対象者が大好きだから攻撃する」というのは違いますよね。
裏を返せばそうなのかもしれませんが、普通に考えれば相手の言動なり行動が嫌いだからアンチするわけです。
なぜか・・・なぜ嫌いになるのか・・・
ほとんどの場合、誹謗中傷はネット上で起きます。
となれば、双方は会ったことすらない事が多いんですよね。
実際に私の場合も、他の人の場合も、誹謗中傷するアンチアカウントの人とは面識すらない事がほとんどですから。
会ったこともない相手に憎念(ぞうねん)を燃やすってどう言う状況なのか・・・
私は経験がないのであくまでも推測ですが、以下のような理由からのような気がします。
- 相手がキラキラしていて自分が虚しくなる、または悔しくなる
- ファンだったのに相手と思うような関係が築けなかった
- 第三者の悪評を目にして自分も同調した
どうでしょうか?
何かのきっかけで、インターネット上にいる全くの見ず知らずの相手に攻撃したくなるほどの嫌悪感を抱くのはこのような場合が多いのではないでしょうか?
逆の立場で考えてみたら少し分かるような気もします。
誹謗中傷するアンチの背景
考えると、匿名で悪口や誹謗中傷をする人も実は苦しいんじゃないかな・・・と思ったりもします。
というのも、私が幼い頃から学生時代を共にした子がいたのですが、その子は常にその場にいない友達の悪口を言う子でした。
仲間外れやイジメのような事もしていたこの子の家庭は、実は非常に両親も厳格で兄弟とも比較され家庭には居場所がなかったんだと後で知りました。
もちろん、そんな事をするわけですから友達からも距離を取られていましたし、悩みを打ち明ける相手もいなかったと思います。
そんな時、気に入らない相手や腹の立つ相手に自分だとバレずに意見できるツールがあったら???
うっぷんを晴らしたくもなるのかもしれません。
誹謗中傷や悪口にはストレス発散の効果があり、それをすることにより快楽物質のドーパミンが分泌されますから、依存症になってしまう危険性はあるのですが、誰にも言えないのってキツイです。
悪口が好きな人はなぜそれをやめられないか? それは「悪口は依存症である」と考えると、非常に腑に落ちます。
誰かの悪口を言うと、やる気や快楽に関与するホルモン「ドーパミン」が放出されます。ドーパミンが出ると楽しい気分になります。だから、悪口を言うことは基本的に楽しいことなのです。
東洋経済ONLINE
つまり、人の悪口や皮肉や批判が多い人は、ベースとして自分の人生に満足していないということなんですよね。
逆に幸せいっぱいの人が、他人の粗探しに時間を使ったりネガティブな事ばかり発言しているでしょうか?
していません。
でも、心が寂しくて、不幸を感じていて、誰にもいえず、最悪な気分だったら・・・
そこに匿名で投稿できるSNSがあったら・・・
「なんか少しわかるな」とも思ったわけですね。
もちろん行為自体を肯定しているわけではなく「そうゆう事情もあるのだな」と。
おそらく嫌な思いをしてきたんだと思う。
人は自分の知ってることしかできないし与えられないからです。
例えば、人格否定されるような言葉を言われたことがある人の場合、その時すごく傷つくわけですよね。
どう傷ついて、どんなに嫌な気持ちがして、悲しかったか“知ってる”んですね。
これって誰かを傷つける際の武器になってしまいます。
「どんな風に相手を攻撃すればいいか?」はどんな風に攻撃されたらどんな痛みがあるか知ってる人だけです。
その武器を使うか使わないかは別として。
だから、自分がされたら1番傷つくであろうやり方で攻撃するんだと思います。
アンチが誹謗中傷して得たい未来
で、結果的に何を求めているのか?
表面的には「相手を倒す事」「相手を苦しめる事」「相手をひれ伏させる事」こんな感じでしょうか。
でも本当に満たしたいのはそこじゃないと思うんですね。
目的は承認と同調
この欲求の深い深い潜在的な部分は「認めて欲しい」これなんじゃないかなと思います。
小学校や中学校でも素行の悪い生徒っているじゃないですか?
いわゆる不良と呼ばれる子達の事です。
行為自体はとても褒められるものではありませんが、あの子達の心の奥にあるものは実は「周りに認めて欲しい」「もっと自分を見てほしい」という欲求だったりします。
不足感はゆがんだ自己主張を生み出し、結果的に間違った行動を取ってしまうのですが、アンチの誹謗中傷も本質は同じだなと。
本当に自分の意見が間違っていない!潰してやる!と思っており、相手と討論するつもりがあるのであれば相手のYouTubeなどの土俵で討論すればいい。
でもダメなんです。そこはバレたくない。
ある意味、堂々とできないということは、やってはいけないことだと認識していることだとも言い換えられます。
そしてアンチはアンチで固まり「そうだよね、そうだよね」と自分の意見が間違っていないことを確かめ合うが如く匿名掲示板や引用リツイートのような手段で挑発したり揚げ足を取ったりするわけです。
なぜそうするのか。
やはり話は戻るのですが、見かけ上は論点について議論したいかのように見えますが、そうではありません。
“誰かの見ているところで誰かに見えるように”そう主張するのは、やはり「認めてほしいから」です。
よく考えてみると、彼らはウォッチしている相手のネガティブな部分だけを(時にはポジティブな部分でさえネガティブに変えて)常日頃からチェックしています。
有名になればなるほどアンチがたくさんいるものですが、有名な人の情報発信量は非常に多いものです。
その中からいつも「叩けるところはないか・・・?」とスマホを片手に握りしめ過ごしている姿を想像してみてください。
こんなことを言うと「上から目線だ!」と私も非難されるかもしれませんが、本当にかわいそうだなと思ってしまうんです。
結局は叩いている相手がどうなれば100点満点なのか?
- 完全降伏し、涙を流しながら公の場で謝罪すれば良いのか?
- 相手が不幸になり何もかもうまく行かなくなれば満足なのか?
- ネットの世界から姿を消し過去の人にさせたいのか?
もし本当にそうなったとしても、問題は解決しません。
叩く相手がいなくなれば必ず次の標的を探すからです。
対象の相手がいなくなれば、仲間との同調は生まれなくなり承認欲求は満たされなくなってしまいます。
満たされない不満を解消するために見つけてしまった誹謗中傷という行為を止めるのはなかなか難しいのかもしれません。
だって手元にはすぐスマホがあり、スマホの中には匿名で繋がれる様々なツールがありますから。
そう考えると、これは “現代病の一種” なのかもしれません。
アンチはアンチを呼ぶ
「類は友を呼ぶ」という言葉がありますが本当にその通りです。
インターネットの世界には情報が溢れていますから、いったいどれを信じていいのかわからなくなる気持ちも理解できます。
そしてネガティブな情報はポジティブな情報のおよそ2倍の広がりを持つとも言われていますよね。
これをグッドマンの第二法則と言ったりもします。
確かにポジティブなことは能動的な理由があまりないため自発的に口にすることは少ないかもしれません。
ですがネガティブな事は違います。
能動的な目的がかなりありますよね。
- 相手を貶めたい
- 相手を傷つけたい
- 相手を服従させたい
などなど。
このようなことからも自発的に口にすることはかなり多くなるわけです。
そこで全く何とも思っていない第三者がそれを見たら?
- 「えっ!?この人こんな事してるの!?うわ最悪・・・」
- 「この人嫌われてるな・・・距離置こう・・・」
こういうことって結構ありませんかね?
自分は特に実害も受けていないのに、被害者になったような気分になったり「一度も会ったことはないけど悪いやつに違いない」こんなふうに思うこと。
確かにたくさんの人に好かれている人の方が魅力的に映るのも理解できます。
ですがみんなに嫌われている人が自分も嫌いかどうかはわからないと思うんですね。
正しくは“会ってみないと”わからなくないですかね?
悪い情報(もちろん良い情報も)に影響されて鵜呑みにするのはいかがなものかと。
中高生の時、よくありました。
A「ねえねえ。B子って色々あって本当に最悪なやつなんだよ。」
私「へー。そうなんだあ・・・」
A「B子、こんな悪いこともしてるし 一緒に無視しよう?」
私「え・・・?なんで・・?わたしは嫌な事されてない・・・」
ここで「えーー?なにそれー。最悪じゃーん。もう友達やめるわー」となる子もいました。
ですが、それは微妙すぎますよね。
だって実害がないんです。
自分の軸ってなんでしょう??
自分の目で見た事、自分の耳で聞いた事、自分の心で感じた事。
それ、第3者からの情報に流されて影響されてしまうのは、その人もまた同じ属性だからです。
似た属性のものは人であれ物であれ集まる傾向がありますから、アンチはアンチを呼びどんどん増幅していきます。
「批判意見は必要じゃない?」という意見について
そうは言っても何もかも容認するのも違うと思います。
「時には批判的な意見も必要じゃない?」これもよくわかります。
多分アンチ側は誹謗中傷している意識はなく、相手の間違いを指摘し批判意見を言っているだけだ。と思っているのでしょう。
イジメっ子にイジメの意識がないのと一緒です。
アンチはアンチの正義の元動いており、叩かれる方も叩かれる方の正義の元動いています。
「どう思うか?」は人の数の分だけ思いがあり、正解はありません。
確かに批判的な意見も必要だと思います。
間違っていたら指摘してあげるのも愛情です。
なぜならそれは批判される側にもメリットがあるからですよね。
批判される側がそれを受け取れる器がある場合、成長につながる可能性すらありますから。
でもこの場合、 批判意見や指摘は公の場所で行う必要はありません。
親が子供の成長のためを思って間違いを指摘する際に子供の間違いを、悪い行いを、Twitterで拡散するでしょうか?
しません。 それは愛情ではありません。
本人にじっくり言って聞かせるはずなんです。
もし兄弟がいるなら、他の兄弟さえも別室に移動させ、本人の耳にだけ届くように注意するはずです。
それが批判意見であり指摘だと私は思うんですね。
ただし、やっぱり先ほど言ったようにネット上でアンチ活動をする人の目的は「批判される人の前途を願って」といったものではありません。
「相手のため」というよりは自分の満たされない気持ちを埋めるための行動なわけですから、 誰にも見られないところで直接やり取りするなんてことは意味がないんです。
見てくれている第3者がいる場所でなくては意味がありません。
だから匿名性の高い SNS が荒れやすいのですよね。
つまり不特定多数の目に見えるところで発信される批判意見や指摘は、その大小はあれど少なからず自分のためにやっていることなんだと思います。
議論しても噛み合うことのない両者
ではアンチとして誹謗中傷する側と、その的になって叩かれる側で折り合いをつけることはできるのでしょうか?
これは結論、和解することは難しいと思います。
前述したように誹謗中傷する側にも何らかの事情があり、満たされない気持ちを埋めるためにやってしまっている場合があると思いますから、根本を解決しないと誹謗中傷をなくす事はできないでしょうね。
それにやはり、する側とされる側では考え方が180度違うというか・・・ ただどちらの意見も間違いではないと思うんですね。
本人がそう思っているのであればそれが真実です。
何度も言うように、問題なのはそれをアウトプットすることでしか埋められない心の闇だと思うわけですね。
一方は他方を「間違っている!」と非難し、逆も同じように反論する。
本当は正解なんて人の数だけあるわけで、何者でもない一個人が公の場で誰かをジャッジするなんて・・・なんだか変だなと思います。
大人になるということは、自分とは違った性質のものを受け入れていく過程のことです。
みんな自分と違う。全て正解。
やはり、誹謗中傷するアンチ側の人間も、もちろん叩かれる側の人間も失敗や過ちを犯したことがない人なんていないはずです。
人は許されるべきだし、許すべきだとそう思うんですね。
もし誰かにジャッジされるのであれば、もし本当に悪いことをしてしまったのであれば、然るべき場所で然るべきルールによって黙っていても裁かれます。
それは一般人である私たちの仕事ではありません。
問題なのは自分の正義を相手に押し付ける行為であり、それは結果として相手を傷つけてしまいます。
誹謗中傷と自分の正義感を相手に押し付ける行為には微妙なニュアンスの違いはあれど結局は同じです。
- 事実無根の罵倒なのか?
- 「相手の間違いを正すため」という大義名分のために行う正義感の押し付けなのか?
これは、表現の違いというだけで、やはり本質は「第三者を公の場所で傷つける行為」と同じだと思うからです。
どっちが良い悪いではなく、この両者が自分の主張に疑いを持たない限り交わることはないと思います。
どちらかが完全敗北するまで、争いは絶えないのだと感じます。
誹謗中傷をする側・される側にとっての最適解はどこ?
では和解できない・交わらない両者はどうすべきなのか?
私の意見としてはこうです。
「別々の世界に住むべき」
- 誹謗中傷する人の背景を汲みとって「可哀想だから」とサンドバックになるのも違います
- 批判的な意見は一切言わず「自分の過ちに気付け」というのも無理があります
ここまできてこういうのもなんですが、何もできることなんてないんですね。
全ては関わる人全員の「自分の問題」だからです。
他者に変えることなんてできません。
ネットで誹謗中傷するアンチ側にも事情がありますが、それを意味のない事だと本人が気づかなくては変わりません。
正義だと信じている以上、会話は噛み合いませんからね。
では受け手はどうすべきか?
これは「見ない・気にしない・反応しない」が大事だと思います。
中には、そのような根拠のない攻撃に心を痛めて命を絶ってしまう人もいますよね。
ですが、ここで私が肝に銘じていることを一つお話ししたいと思います。
それは「人生のリアルはネットの中にはない」ということです。
人生のリアルは体と心の所在地のある場所に存在します。
1日の中で SNS に触れる時間が長かったり、常にインターネットの世界に居るとそれが全てだと思いがちですが、それはある意味まやかしです。
批判する方も批判される方も、ネットの世界にリアルはありません。
経歴詐称などで大炎上した方の話は記憶に新しいですが、私たちがいくら正義を振りかざして彼を正そうとしても、 彼が今幸せな気持ちでいればそれが真実であり、そこがリアルであり、ネットの世界で攻撃してもそれを壊す事なんて不可能という事です。
※彼が見ていなければ本人にとってはないも同然になってしまうから
とはいえ、やはり間違ったことをした時は、行動を改めて傷つけた人に謝るのが筋だと思います。
ネットの世界といえども、責任をとることも大事です。
アンチが全部悪い!ではなく「自分の中にも非を探す」のが重要であり、それをすることにより批判意見も肥やしにすることができるのだと思う。
叩かれる側も「人の粗探しばかりするな!」と言うなら、自分も相手の悪いところばかりにフォーカスしてはいけないなと自戒の意味も込めて思いました。
私にとっての最適解は、ちょっと立ち止まって相手の立場を想像しつつ、理解し合えないなら別々の世界に住むことです。
そこで無理に争ったり戦ったりする努力は何か別のところに使うのが有効ですよね。
まとめ
ということで、今回はネットの世界で根強い問題である誹謗中傷について、される側ではなくアンチの立場で考えてみました。
この記事で1番言いたかったことは、以前キングコングの西野さんも動画で言っていた「混ぜるな危険」ということでしょうか。
ネットで誹謗中傷をすることを無理にやめさせることはできなくて、本人もそれを悪いことだと思っていない。
もはや正義だとすら思っている。
しかも、本人の精神衛生を保つための唯一のはけ口が “それ” なのだとしたら、やめさせるのは無理だと思うんですね。
ではそう考えた時、 やられるがままサンドバッグになれば良いのか?といえば、そうなってしまうと受け手側が今度は精神的にやられてしまいます。
「お互いが相手の立場に立つ」 これができれば最高だとは思いますが、両者は混じり合わない水と油のような存在なわけなので、攻撃する人はそっとしておきつつ、される側はその世界から立ち去るのが大事なんだと感じます。